ぴよすけです。
今回は詩の定番教材ともいえる、宮澤賢治の「永訣の朝」です。
この詩は途中でローマ字部分があり、どのような解釈なのかがしばしば読み手の間で話題となります。
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
出典:『春と修羅』宮澤賢治
空からみぞれが降る冬の朝、最愛の妹の死を題材にした宮澤賢治の代表作です。
「永訣」とは永遠の別れ
永訣とは永遠の別れを意味する言葉です。
永遠に別れること。また、死別すること。永別。
引用:デジタル大辞泉
詩にも登場する妹のトシが亡くなる場面を詠んでいます。
賢治とトシの関係
単純に兄妹というだけでなく、賢治にとってトシは心の支えであり、良き理解者でもありました。
賢治と同じく宗教を信仰し、賢治は他の兄妹の中でも特にトシを可愛がったとも言われています。
宮澤賢治の詩集『春と修羅』には「永訣の朝」のほか、「松の針」「無声慟哭」などトシを失った悲痛な思いが込められた詩が収められています。
「永訣の朝」に登場する自然
この作品にはいくつかの自然が登場します。
雪・霙(みぞれ)・雲・銀河・太陽・松
このうち雪・霙・雲・銀河・太陽は「天」と関わる言葉です。
賢治は大変熱心な宗教家でもあったため、妹は死ぬことで天へ向かい、転生すると考えていました。
亡くなる前に賢治に頼んだみぞれ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
詩に登場する( )で括られた部分は、賢治の言葉でない部分です。
この詩には賢治の故郷の言葉である方言が使われています。
「あめゆじ」とは雨雪、つまりみぞれを指します。
「とてちて」は取ってきて、という意味。
「けんじや」は取ってきたものを渡して(献じて)ほしいということです。
ローマ字で表現された部分とは
詩の後半部分に、以下のローマ字表記があります。
(Ora Orade Shitori egumo)
このローマ字部分は読み手にとっていろいろな想像ができる部分になります。
ローマ字部分は「わたしはわたしひとりでいきます」
「おら、おらで、しとり、えぐも」と読み、「おらはおらでひとりいきます」=「わたしはわたしひとりでいきます」という意味になります。
岩手の言葉で「わたし」を「おら」という部分がピンとくれば、そんなふうに言っているように見えてくるのではないでしょうか。
なぜローマ字なのか
ローマ字表記になっている部分の明確な正解はありません。
いくつかおもな解釈を紹介します。
トシの死に際の言葉が受け入れられなかったから
愛する妹の死が目の前にして賢治自身がトシの言葉を受け入れられず、別の言葉のように聞こえてしまった、という解釈です。
つまり「わたしはわたしひとりで逝きます」という意味です。
方言を用いるなど「すぐ目の前にトシがいる」情景を詠んでいます。
詩の前半部分はきちんと妹の願いを叶えようとしている賢治がいますが、後半部分ではもうトシがこれから天に召されるということが中心になっています。
いつまでも一緒にいたいと思っている賢治にとって、「わたしはひとりでいきます」という言葉は「妹の発言が理解できなかった」ことを表現するため、ローマ字にした、と鑑賞できます。
トシの言葉を神聖なものとして受け取った
もう一つの解釈は、妹という肉親の言葉として聞いたのではなく、神聖な言葉・宗教的な言葉として受け取ったからローマ字にした、というものです。
賢治は非常に熱心な仏教徒であり、天に召される妹は肉体を失い精神が天へ向かおうとしている場面です。
その妹から発せられた言葉(特に「わたしはわたしひとりでいきます」という賢治にとって非常にショッキングな内容)は、自分の妹から発せられた言葉ではなく、これから召される天の言葉に近かったのではないでしょうか。
実は賢治の思いだった
実はこのローマ字の部分は賢治の思いなのでは!?とも読むことができます。
問題のローマ字部分の前後は次のようになっています。
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
( )で括られた部分は妹の発言と読めると先述しましたが、実はこの部分だけ賢治の心象を表現しているとも読めるのです。
その根拠となるのが( )の前にある字下げです。
「あめゆじゆ~」の部分はカッコの前に三字スペースがあります。
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
また、「うまれてくるだて~」の部分も字下げがあります。
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
詩歌において、字下げ(あえて空白を作ること)も作品としてのひとつの技法と考える人もいます。
その代表例が石川啄木などです。
つまりこのローマ字部分だけは字下げがなく、妹の発言ではないとも読み取れます。
(実際には作品にする過程でのミスだったとも考えられます)
もし、この部分を賢治の心の声と捉えると、
=妹を失っても自分は一人で生きていきます
と受け取ることができます。
文学研究者が何人もこの詩についての論文を書き上げているため、普通であればこのような解釈はいわゆる「間違いである」と突きつけられるかもしれません。
しかし、文字からイメージする詩歌において、自由な発想で作品を受けることは間違いではありません。
初見でこう感じた、こんな作品だと思った、という感想は大切にしてほしいものです。
突飛な解釈だと思いますが、これを否定できる材料もないため、詩の鑑賞としては成り立つのではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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