ぴよすけです。
芥川龍之介の『鼻』という作品はご存知でしょうか。
短編小説として有名ですし、かつて国語の授業で受けた人もいるのではないでしょうか。
この『鼻』は、芥川が古典作品をもとに作った作品となります。
今回は『鼻』の題材となった2つの古典作品を紹介し、芥川作品の『鼻』との違いをまとめました。
『鼻』の題材は『宇治拾遺物語』『今昔物語集』
芥川龍之介の『鼻』は次の2つの古典作品をもとに作られています。
・『宇治拾遺物語』に収められている「鼻長き僧の事」
・『今昔物語集』巻第二八の「池尾禅珍内供鼻語」第二十
芥川は『鼻』以外にも『羅生門』や『芋粥』、『藪の中』なども古典作品を題材にしています。
『羅生門』についての考察はこちら▼
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『鼻』は夏目漱石が褒めたほどの良作
『鼻』は芥川龍之介の才能を世に広めた作品ともいえるでしょう。
芥川は久米正雄たちと「新思潮」という雑誌を刊行し、その創刊号に『鼻』を掲載しました。
明治の文豪、夏目漱石が『鼻』を読んで芥川を激賞したというエピソードが残っています。
『鼻』は芥川が24歳のときに発表した作品です。
『鼻』の1年前に発表した芥川の代表作『羅生門』は、当時まったく評判になりませんでした。
そこで芥川は夏目漱石の木曜会という集まりに参加し、門下入りしたという経緯があります。
古典作品のあらすじ
『宇治拾遺物語』「鼻長き僧の事」と、『今昔物語集』「池尾禅珍内供鼻語」の内容はほぼ共通しています。
以下は『宇治拾遺物語』『今昔物語集』のあらすじです。
あらすじになるのでご注意ください。
池の尾の善珍内供という僧
昔、池の尾に善珍内供(ぜんちんないぐ)という僧が住んでいました。
(伝本によっては「善竹内供(ぜんちくないぐ)」となっている場合もあり)
長年修行し、世間の人々も祈祷の依頼をしていたため、寺は経済的に豊かでした。
ところで、この内供は鼻が長かったのです。
五、六寸(現在の15~18センチ)だったので、下顎より下がっていました。
色は赤紫色で、夏みかんのようにぶつぶつとしてふくれていました。
そして、内供はたいそう痒がりました。
鼻を短くする方法
内供の長い鼻を短くする方法はありました。
まず、ひさげに湯を沸かし、折敷に穴を開けたところに鼻を入れて茹でると、色が濃い紫色になります。
内供が横になり、鼻を人に踏ませると、毛穴から白い虫が出てくるので毛抜きで抜きます。
再び鼻を茹でると、鼻は小さく縮み、普通の人の鼻のようになります。
しかし二、三日するとまた元の長い鼻になってしまいました。
鼻が腫れた日には食事がしづらかったので、内供は弟子の法師を向かい側に座らせ、板を使って内供の鼻を持ち上げさせていました。
鼻を持ち上げた童、キレる内供
あるとき食事で鼻を持ち上げていた法師がいないことがありました。
するとある童子が「私が上手に持ち上げてみせます」と言いだします。
内供はこの童子を向かいに座らせて、鼻を持ち上げさせました。
童子はじめはうまい具合に鼻を持ち上げていました。
が、童子がくしゃみをしようと横を向いたとき、手が震えて鼻を粥の中へ落としてしまいました。
内供はひどく腹を立てます。
「おまえは忌まわしい心を持ったやつだ」
「乞食小僧とはおまえのようなやつのことを言う」
「もしわしではなく、他の高貴な方の鼻を持ち上げるときにもこんなことをしでかすのか!?」
「馬鹿野郎め、とっとと失せろ」
内供は童に対して怒りまくりです。
すると童子は言います。
「世の中にそんな(長い)鼻を持っている人がいるなら、その人の元へ鼻をもたげに参りましょう。(だけど実際はそんな長い鼻を持っている人はあなたくらいなものだ)。馬鹿なことをいうお坊さまだ」
弟子たちは物陰に逃げ隠れて笑いました。
『宇治拾遺物語』と『今昔物語集』の違い
あらすじはほぼ同じ
先にも述べたように、書きぶりなど若干の違いはあるものの、話のあらすじは同じです。
小学館の日本古典文学全集「今昔物語集 四」に次のような解説がついています。
本話の典拠は未詳。ただし、『宇治拾遺物語』二五は同文的同話で、両者は同原拠とみられる。
出典:日本古典文学全集「今昔物語集 四」(小学館)p.227
つまり同じ話をもとに作られているということでしょう。
語り手の感想の有無
内容の違いを挙げるとすると『今昔物語集』には結末部分に語り手の感想が述べられているという点です。
下記は現代語訳の結末部分の引用です。
思うに、実際、どんな鼻だったのだろう。じつにあきれた鼻ではある。
童のいとも痛烈に言った言葉を聞く人は、みなほめた、とこう語り伝えているということだ。出典:日本古典文学全集「今昔物語集 四」(小学館)p.231
昔話や伝承を語り、その後に語り手の感想が付いている作品は他にもあります。
古典作品の主題
この話のおもしろさは主に次の2つでしょう。
- 童にやり込められてしまう高尚な僧
- 高尚であるはずの僧が、低俗な物言いになるほど取り乱す
童にやり込められてしまう高尚な僧
子ども相手に高尚な僧がやり込められてしまうというのは、最後のセリフの部分から見て取れます。
僧:もし他の高貴な人の鼻を持っても、お前はくしゃみをして落とすつもりなのか!?
童:あなたみたいに長い鼻を持っている人は誰もいないやい!馬鹿なお坊さんだ!
たしかに僧の言い分もわからなくはないですが…
普通に考えればちょっと何言っているかわかりませんね。
童を叱っているつもりが、自分で墓穴を掘って笑いの対象になってしまっています。
高尚であるはずの僧が低俗な物言いになる
コンプレックスは誰にでもあるもので、それはおそらく修業した身である高僧でも同じでしょう。
しかし、取り乱して「馬鹿野郎」などというお坊さんは過激すぎますね。
これはおそらく内供の本来の姿を炙り出している話でもあります。
醜い鼻の持ち主である内供は、物語前半に経済的にも裕福であり、功徳も積んでいる僧という説明があります。
功徳を積んでいる=高尚
経済的にも裕福=欲がある
という2点を象徴していると思われます。
大激怒する様は、内供の本当の姿として描かれています。
そんな大激怒する内供に追い打ちをかけるのが童です。
童は「内供以外にそんな鼻を持っている人はいない」と言い切ってしまいます。
さらに弟子の僧たちは、物陰に隠れるか外に逃げるかの違いはありますが、どちらでも大笑いです。
つまり弟子の僧たちは内供に対して本心では尊敬していなかったのではないでしょうか。
寺の中では知識や徳行に優れ、寺の経営にも秀でた高貴な僧でも、コンプレックスに勝てず取り乱してしまうという部分がこの話のオチとなります。
芥川龍之介「鼻」との違い
1 鼻を短くする方法が初めからわかっている
古典2作品では、物語開始時から内供は鼻の長さが短くする方法を知っています。
芥川作品では、弟子の僧が京都の知り合いの医者から方法を聞くまでに様々な手法を試したエピソードが添えられています。
「鼻の長さに悩む僧」を描くことで、リアルさを出しています。
2 短くした鼻をもとに物語が展開する
せっかく鼻が短くなった後、物語はめでたしめでたしと終わらないのが芥川。
まさに他人の不幸は蜜の味、内供は人々の嘲笑の的になってしまいます。
現実世界でも起こりうる「その後」を、今から100年も前に物語として書ききっています。
作品を読み比べると新たな発見がある
芥川が単純に昔話にテーマを見つけ、それをそっくり真似しただけでは、これほどの有名人にはなっていないでしょう。
人間性やドラマを新たに生み出し、リアルで共感できる作品に仕上げたからこそ、今でも賞を冠するほどの人物として讃えられています。
作品を一度読んで終わるのではなく、読み比べて新たな発見をしてみるのも面白いですよ!
『羅生門』についての考察はこちら▼
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