高校時代に学んだ詩は、大人になってまた出会います。
「そういえば高校生の時にやったような…」
この感覚がとても大事。
現役で働く世代にとって、多くの人が学んだであろう、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩。
茨木のり子って、そういえば学生時代に触れたことがあるような…
「自分の感受性くらい」っていうタイトルはなんとなく覚えてるような…
今の20代以下では、この詩に触れてもいないのかもしれません。
もしかしたら、今の中学生や高校生は学校で取り扱っていないかもしれません。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ引用:『自分の感受性くらい』 2005年5月1日 茨木 のり子著
感受性とは次のような意味を持ちます。
外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。
出典:デジタル大辞泉(小学館)
感受性が強いとか感受性が豊かというと、影響を受ける度合いが強い・豊かだということになります。
映画を観て感動する、素晴らしい言葉に触れて涙が出る、心ないニュースを目にして悲しむ…
感受性が強いとか豊かということになります。
しかしこの感度、当たり前ですがみんなが自分と同じではありません。
自分が感動した映画をつまらないという人、素晴らしいと思った言葉を「甘えを生む言葉」と捉える人、自分にとって悲しいニュースを「自己責任」の一言で片づける人…
本当に受け取り方は様々です。
そして、受け取り方が様々ということは、受け取った後の考え方まで様々になるわけです。
今、こうして文章で「自分の感受性くらい」という詩を紹介している行動さえ、感受性に左右されます。
私は記事を見た人にこの詩を一人でもいいから共有できたらなぁと思っています。
けれども見た人は押し付けだ、何様のつもり、などなど。
自分の考え方を押し付けるのはよくない、自分の中に考えや思いが浮かばないのもよくない、出てきた思いを何かのせいにするのもよくないです。
みんな感受性が違うから世の中の意思疎通が大変なんですね。
ひとのせい、友人のせい、近親のせい、暮らしのせい、時代のせい…
生きていれば何かに責任転嫁したくなることもあります。
しかし感受性は自分自身にしか守れない。
自分で感じたものをどう捉えるかは自分の力。
茨木のり子さんは「自分の感受性は自分で守れ」と言っています。
多くの人が「守れてるよ!」と答えるでしょう。
でもその答えも「感受性」から出た言葉なのだろうと思います。
「自分の感受性くらい 自分で守れ、ばかものよ」
この言葉を見て、ようやく何かのせいにしている自分がいるのに気づかされます。
こんな世の中だからこそ、周りのせいにせず、自分の感受性くらい、自分で守りたいものですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
↓↓↓クリックしていただくとぴよすけが泣いて喜びます。