ぴよすけです。
今回は安部公房の短編小説『鞄(かばん)』についての考察をしていきます。
この作品は高校生の時に国語で習った人もいるでしょう。
ぴよすけは大人になってから、この話と出会いました。
かなり短いお話ですが、実は相当奥が深い作品です。
なるべくわかりやすくまとめてみましたが、それでもお見苦しい部分もあるかと思います。
「鞄」の役割など根拠を示しつつ考察しましたので、ぜひ最後までご覧くださいませ。
お時間のない方は目次から気になる部分へジャンプできます。
作品情報
作品データ作者:安部公房
発表:1975年刊行 新潮文庫「笑う月」に収録
『鞄』は短編小説で、10分程度で目を通すことができます。
しかし、一度読んでも(表面上の文字を追っても)理解するのは難しく、「何を言いたい作品なのか?」という疑問が残ってしまうような作品でもあります。
『鞄』の簡単なあらすじ
登場人物は短編小説でもあるため、私と青年の2人しかいません。
あるとき青年が職を求め、私の事務所を訪れます。
私は青年を雇うことを決めますが、青年はまだ住む家が決まっていません。
家を探すために青年は持っていた鞄を事務所に預け、外へ出ていきます。
私は事務所に残された鞄を手にとると、鞄に導かれるように歩き始めます。
そして私は「嫌になるほど自由だ」と感じました。
この作品における世界観ですが、具体的な時代・場所など設定しているわけではなく、抽象的な世界観であることが前提となります。
「鞄」「求人広告」など私たちの現実世界にもある言葉が出てくるので、ふと私たちの世界観を思い浮かべてしまいがちです。
私たちの住む世界を想像するより、完全に空想上の作られた世界観を想像してみてください。
「鞄」は自分の能力や性質を象徴している
作品のタイトルにもなっている「鞄」ですが、このお話では自分の能力や性質を象徴しているアイテムとして描かれています。
その理由を3つの視点から見ていきましょう。
作中の鞄は「そこにあるもの」より「何かを表しているもの」
本文には以下のような表現があります。
「中身は何なの。」
「たいしたものじゃありません。」
「口外をはばかられるようなものかな。」
「つまらない物ばかりです。」
「金額にしたら、いくらぐらいになるの。」
「べつに貴重品だから、肌身離さずってわけじゃありません。」(中略)
なんということもなしに、鞄を持ち上げてみた。ずっしり腕にこたえた。
(何が入っているかは不明ですが)中身についてのやりとりがあり、手で持つことができるなど、「たしかにそこに存在しているもの」として読める部分もあります。
しかし、鞄を手に取った私は歩き続け、迷子になってしまうという非現実的な現象を体験したまま物語が終わってしまうんですよね。
そのため鞄は、実体としてそこにある何かというより、何かを象徴したアイテムとして読んだほうがスッキリします。
なぜ自分の能力や性質を表すのか?
では具体的に、鞄の持つ象徴性を考えるため、3つのシーンをクローズアップします。
シーン① 鞄を持ってきた青年
青年は私の事務所が出した求人広告を頼りにやってきました。
その理由を次のように語っています。
「さんざん迷ったあげく、一種の消去法と言いますか、けっきょくここしかないことがわかったわけです。」
一般的に「消去法でおたくの会社を選んだ」と雇う側に言うには失礼ですし、「ここしかないことがわかった」という部分がいかにも意味ありげですね。
なぜそういう考えに至ったかを尋ねると、青年は「この鞄のせいでしょうね。」と答えます。
つまり、鞄を持っていたから私の事務所しか選ぶことができなかったということになります。
また、鞄について、青年が次のように言います。
「この鞄のことは、誰よりもぼくが一番よく知っています。」
しかし鞄を手放すという選択肢は青年にはないようです。
「すると、鞄を持たずにいれば、必ずしもうちの社でなくてもよかったわけか。」
「鞄を手放すなんて、そんな、ありえない仮説を立ててみても始まらないでしょう。」
…いや、手放せば楽になるじゃん?笑
普通はそう考えますよね?
しかし、青年が手放さないということは、青年と一緒に移動しなければならないものということになります。
自分のプライベートな鞄を手放すという仮定の話ができないという状況は、貴重品が入っているときを除き、日常ではそうそうありません。
むしろ、他にモノを持つから鞄を置く、荷物が多くなるから鞄を預けるなど鞄が荷物となり手放すほうが多いくらいです。
・自分は鞄のことを一番知っている
・鞄を手放せない、もしくは切り離せない
シーン② 採用後の青年
私が青年の採用を決めたあと、青年は鞄を下宿に置くことを約束します。
青年が下宿を探しに出ていく際、次の一節があります。
知り合いの周旋屋に電話で紹介してやると、彼はさっそく下見に出向いて行った。ごく自然に、当然のなりゆきとして、あとに例の鞄が残された。
あれっ? 鞄、手放してるじゃん!笑
そう、採用する前の私と青年のやりとりでは、先に述べたように青年は鞄が手放せない(手放すという仮定の話ができない)ことを言っていました。
それがここにきて、アッサリと簡単に手放しています。
これは青年の職が決まったことで、鞄を自身から切り離すことができたのでしょう。
また、鞄を手放した青年は「表情にふさわしい爽やかな笑い声をたて」、何かから解放されたような描写があります
・鞄を手放したあと、爽やかさがあった
シーン③ 私が鞄を手にすると…
さて、青年が事務所に置いていった鞄を私が手にすると不思議なことが起こります。
ためしに、二、三歩、歩いてみた。もっと歩けそうだった。
しばらく歩き続けると、さすがに肩にこたえはじめた。それでもまだ、我慢できないほどではなかった。
(中略)
気がつくと、いつのまにやら私は事務所を出て、急な上り坂にさしかかっているのだった。
このあたりから読んでいて「ん?」と首をかしげたくなりますね。
これまでスラスラ内容が頭に入っていたのに急に場面転換し、挙句の果てに私は迷子になっています。
そのうち、どこを歩いているのか、よくわからなくなってしまった。
鞄を持つと勝手に歩き出し、そのままどこを歩いているかわからなくなる…そんな現象は現実的には起こり得ませんよね。
つまり先に述べたように、この物語自体が現実的な状況を想起させる話ではなく、抽象的な世界観で描かれていることになります。
私は青年の鞄を持っただけなのに道に迷い、おまけに坂や石段によって進むべき道が限定されているのです。
そして最終段落が以下のようになっています。
べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。
「鞄が導いてくれている」とは、鞄を持つことで選択肢が決まっているということです。
ここでいう「道」とは、単なる道路のことではなく、進むべき方向性や生き方などでしょう。
また「坂や石段」とは、単なる障害物ではなく、進むには越えなければならない困難や難関を指していると思われます。
・坂や石段により、進む方向が限られている
・しかし不安は感じず、鞄が私を導いてくれていた
以上の3つのシーンのポイントをまとめると次のようになります。
- シーン①鞄を持ってきた青年・仕事を選ぶ際、鞄を持っていたせいでこの事務所しか選択肢がなかった
・自分は鞄のことを一番知っている
・鞄を手放せない、もしくは切り離せない - シーン②採用後の青年・職が決まったら鞄を手放すことができた
・鞄を手放したあと、爽やかさがあった - シーン③私が鞄を手にすると…・鞄を手にするといつの間にか歩き出してしまう
・事務所の外に出ると、どこを歩いているかわからなくなってしまった
・しかし不安は感じず、鞄が私を導いてくれていた私の感想:嫌になるほど自由だった
我々は物事を決めるとき、自分の意志・考え・気持ち・現状などを総合的に考慮して選択します。
ところが、考えや気持ちが傾いていてもどうしても状況的に選べない場面は、世の中に数多く存在します。
たとえば…
・就きたい職があるが、資格を持っていない
・一人暮らしをしたいが、親の介護がある
・車が必要で新車がほしいが、お金がないため中古車しか買えない
この話で青年は仕事を探している際に「ここしかなかった」と言っています。
言い換えれば、自分の求めている仕事や職場が合致しなかったと読めます。
鞄が象徴しているものは、自分の能力的なもの・性質的なものになるのではないでしょうか。
作品の主題:自由と不自由
いよいよ作品の主題です。
ぴよすけはこの作品から「人は生きるうえで一定の不自由を欲するものなんだよ」というようなメッセージを感じました。
① 事務所は外の自由な世界を象徴
まず、作中に登場する私の事務所は、集団やコミュニティとして描かれています。
集団には何らかのルールが存在する
どのような集団でもルールや決め事は存在します。
国なら憲法、学校なら校則、家族間の決め事…といった具合です。
友人同士であっても「相手の嫌なことをしない」という暗黙の了解があるからこそ一緒にいるわけです。
自分の嫌がることをする、不快にさせてくる相手とは一緒にいたくありませんよね。
集団には何らかの目的や方向性がある
また、社会的集団では何か一つでも同じ方向性(共通理念のようなもの)を持っている場合が多いです。
国家単位でもそうですし、会社や学校では社訓や校訓などで方向性が示されています。
また切っても切れない血縁関係であったり、仲間同士で利害が一致していたり、共通の趣味があったり…
そういった集団に属すると、大なり小なり規範が存在するため一定の自由さは失われてしまいます。
逆を言えば集団に属していない限り、自由が広がっているということになるわけです。
この話の場合、青年は事務所という社会的集団に採用されたため、いったん鞄をそこに置くこと(自分を能力・性質に合った所属させる場所)ができたわけです。
・あるとき、一定のルールが存在するコミュニティに所属しようと考えた。
・しかし自分にとって相応な場所が見つからず、合致したのは私の事務所だけだった。
② なぜ自由を捨てたのか?不自由を求める心理とは
では次に、外の世界である自由を放棄してまで不自由を求めたいものなのかということについて考えてみましょう。
みなさんは以下のような経験はおありでしょうか?
- 実家暮らしで何かと親が注意をするため「早く一人暮らしをしたい」と思った
→実際一人暮らしを始めると、叱ってくれる人もいないため、何をするにしても一種の怖さを感じた
- 中学校・高校までは制服があり、個性が出せず不自由さを感じた
→大学に進学して制服はなくなって好きな服が着られるようになったが、毎日服を選ぶのが大変になった
- 恋人に今日の夕飯は何を食べたいかを尋ねると「何でもいい」と言われた
→和食・洋食・中華・軽めなど、何か要望出してよ…と思った
- 毎日仕事があって、ここ最近は丸々1日休んでいなかった
→いざ休みの日になると何をしていいかわからない
不自由より自由を求める…当たり前ですよね。
しかし多かれ少なかれ、何かに縛られている・選択肢が存在しているほうが何も考えずにいられるから楽だと感じたことがあるのではないでしょうか。
自由すぎるほど、何をしていいか困ってしまうという現象です。
自由すぎて困ってしまった結果、青年は私の事務所にたどり着き、会社の一員として所属することで自由を手放すわけです。
「青年」だからちょうどいい!
上記のように自由すぎて困ってしまうというのは、「青年」という部分も関係していると考えます。
みなさんはどんな「青年」をイメージしましたか?
ぴよすけは「青年」という言葉から、20代前半の社会に出たばかりで急に選択肢が広がって困った男性をイメージしました。
自分の生き方・生きる道を手探りで進んでいるような年代なのかなぁ、と…
これがもし「青年」ではなく「少年」や「初老の男性」とかだったら、また違った解釈になってきます。
「少年」だったら生き方や自由の本質について考える年代ではないし、「初老の男性」だったらすでに迷わず生きていそうなイメージがします。笑
「歩けはじめた」と「歩きはじめた」の違い
この物語で筆者が凝った表現をしていると感じたのが、次の部分です。
方向転換すると、また歩けはじめた。
ん?誤字か? と思いましたが、どの単行本でも「歩けはじめた」になっています。
「歩きはじめた」じゃないのかと思ったのですが、どうやら筆者が意図的に変えているようです。
では、「け」と「き」が違うとどうなるのか、まとめると次のようになります。
すでに進むべき道が決まっており、足を前に出せばその道に沿って歩を進めるようなニュアンス
進む道が必ずしも一つではなく、自分の意志で進む方向を決めて一歩を踏み出すようなニュアンス
こういった細かい部分にまでこだわって読んでみると面白いですね。
③ 嫌になるほど自由だった…何が嫌だったのか?
本文結びの「嫌になるほど自由だった」ですが、2通りに解釈できます。
・コミュニティに所属するよりも自由度が高くなり、嫌気がさした
・決められた道(選択肢しかない)から嫌だが、自由となった
日本語文法的に解釈すれば、おそらく前者かと…
しかし、後者の解釈もできなくはありません。
鞄(自分の能力・性質が入ったもの)を持ちながら外に出たから、決められた道しかない…そう捉えることもできますね。
まとめ:自由ばかりが楽ではない
簡単にストーリーをまとめると以下のようになります。
職探しをしていたときの青年は、自由な世界(鞄を持った外の世界)にいました。
ところが、他に身を落ち着けるところがなく(自分の条件と合致しないなどの理由から)、やむなく消去法で私の事務所にたどり着きます。
事務所は一種の集団社会の象徴であり、外よりも制限が多いです。
しかし、青年は自由な世界よりコミュニティに所属することを選び、事務所に採用となりました。
私が、青年が置いて行った鞄を手にすると、事務所の外へ出て歩き始めます。
私は「嫌になるほど自由だった」と感じます。
ないものねだりという言葉がありますが、ぴよすけがこの話を読んで思い浮かんだ言葉です。
人は(少なくともぴよすけは)時に自由に生きたいと思い、すべてを投げだせたら楽になるんだろうなぁと考えます。
しかし実際に自由になってしまうとすべての責任が自分に降りかかります。
どこかへ所属し、帰属意識を持つということは不自由な時もありますが…案外そのほうが心地よさを感じる時もあるのではないでしょうか。
10ページにも満たない分量でこれだけのことを考えさせてくれる素晴らしい作品ですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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