ぴよすけです。
今回は梶井基次郎の代表作である『檸檬』についてのあらすじ・考察をまとめています。
いまだに高校生の定番教材として用いられている『檸檬』ですが、結末部分にかけて話がわかりづらい人も多いと思います。
この記事ではあらすじの他、なぜタイトルに檸檬が用いられていたのか、結局この作品はどこが素晴らしいのか等もぴよすけ目線で解説しています。
昔読んだことのある人も、今勉強中の方も、ぜひご覧ください。
作品紹介
作品データ
発表:1925年(大正14年)
・梶井基次郎の代表作
梶井基次郎について
梶井基次郎は思春期の頃から夏目漱石を愛読し、自らを「梶井漱石」と呼ぶほどでした。
文学を愛する梶井青年は19歳のときに軽度の結核と診断されてしまいます。
今回紹介している彼の代表作である『檸檬』は、梶井が22歳の時に執筆を開始します。
しかし、その年の9月に関東大震災が発生、生活が荒れてしまいます。
なんとか24歳で『檸檬』を同人誌に発表しますが、発表当時、この作品は特に話題になりませんでした。
その後も複数の作品を発表しますが、梶井は31歳という若さで亡くなってしまいます。
あらすじ
憂鬱な生活を送る「私」は、「えたいの知れない不吉な塊」に心を抑えつけられていました。
以前には喜びを感じていた美しい音楽や詩も、「私」の心を癒すことはありません。
その頃の「私」は、「みすぼらしくて美しいもの」に心を惹かれていました。
壊れかかった街や生活感があふれる裏通りなどです。
みすぼらしくて美しいものがある街に自分が今いるんだという錯覚を起こそうと努めます。
借金や追われる現実から逃避するため、そんな空想を楽しんでいました。
また、「私」は花火の束やおはじきなど昔懐かしい玩具にも心を癒されていました。
借金に追われ、経済的にも困窮する心を慰めるのは、少年時代を思い出させるような小さくて美しいものでした。
まだ生活が落ち着いていた頃の「私」が好きだった場所は、丸善でした。
店内に並ぶ西洋の画本などに心惹かれていたのです。
しかし、借金を抱えていた「私」にとっては、すでに重苦しい場所となっていました。
書籍や学生、勘定台がみな借金取りの亡霊に見えてしまったのです。
ある朝、寺町通りにあるお気に入りの果物屋の前に来たところ、その日は珍しく果物屋に檸檬が並んでいました。
檸檬の色や形に心を奪われ、一つだけ買って街を歩き続けます。
「私」が檸檬を手に取った瞬間から、それまで心を圧迫し続けていた「不吉な塊」から解放されるような幸福感を得ます。
檸檬によって「私」の憂鬱な気分が解放されるとは思いもよらなかったのです。
彷徨った末に辿り着いたのは、例の丸善でした。
普段あれほど避けていた丸善に、檸檬を手にしている今なら入れるように感じたのです。
しかしいざ入店してみると、幸福感はしだいに薄れ、いつもの憂鬱が戻ってきてしまいます。
以前「私」の心を惹きつけた画集を次から次へと手に取っても気持ちは晴れません。
ついには手に疲労を感じ、本をしまうことさえままならなくなってしまいます。
そのとき「私」はあることをひらめきます。
画本の色彩を積み重ねて「奇怪な幻想的な城」を作りました。
そして積み重ねた画本のてっぺんに檸檬を据えると、画本の雑多な色彩が檸檬に吸収されます。
様子を少し見ていると、不意に「第二のアイディア」が起こりました。
檸檬をそのまま放置して外に出る…そして、檸檬が爆発し、あの丸善が木端微塵になる。
「私」はそんな想像をしながら、街を歩いていきました。
もっと簡潔にまとめたあらすじ
上のあらすじを読んでもよくわからん!という人のために…
さらにあらすじを簡潔にまとめてみました。
- 起不吉な塊借金などで憂鬱になっていた「私」は「えたいの知れない不吉な塊」と名付けるほかない気分だった
- 承現実逃避1「私」は空想の世界を想像したり、玩具などに心を馳せたりすることで「えたいの知れない不吉な塊」から逃げようとしていた
- 転檸檬を手にするとある日、果物屋で手に入れたレモンのおかげで元気になり、これまで避けていたかつてのお気に入りの店「丸善」に立ち寄る
- 結現実逃避2気づまりな丸善で、レモンを爆弾に見立て爆発させる瞬間を想像する
初めて読んだ人にとっては謎が残る作品ではないでしょうか?
え、檸檬が爆発!?みたいな笑
以下にいくつか要点を絞って解説していきます。
「えたいの知れない不吉な塊」とは
「えたいの知れない不吉な塊」は冒頭部分で登場し、作品全体に関わっています。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終抑えつけていた。
えたいの知れない=正体不明ということです。
直後の「焦燥といおうか、嫌悪といおうか」とあったり、「憂鬱」「できることなら逃げ出して」など、「私」の気持ちの暗さが表されています。
一言では表せない悩みや不安が重なって塊と化している、とでも言うべきでしょうか?
正体が具体的な何か、というより、身体的・精神的・経済的な圧迫感全体を指している、もしくは将来に対する不安感などを表現しているとも読み取れます。
借金だけが原因か?
借金の描写もあるため、生活に困窮することで暗い・マイナスなイメージになっているようにも思いますが…
本文には次のような一節があります。
結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。
つまり安易に「不吉な塊=借金・病気」というわけではありません。
なぜ「檸檬」なのか
レモンでなくてもイチゴやバナナではダメなのか…
タイトルにもなっている「檸檬」は次の2点の役割を持っていると考えられます。
① レモンそのものが持つ性質
② 当時のレモンが持つ価値
① レモンの性質
レモンから想起されるイメージは以下のようなものでしょう。
・すがすがしさ
・酸っぱさ
揚げ物にレモン汁を振りかけるのも、脂っこさの中にサッパリした風味を添えるためですね。
主人公が鬱な気分でいる場面を一気に転換させる役割がレモンにはあるのでしょう。
また、レモンの「黄色」には次のようなイメージがあります。
(ヒマワリ、光の色としての黄色 など)
・危うさ、緊張などのネガティブなイメージ
(踏切、信号機などの警告色としての黄色 など)
フレッシュさや、まだ若々しい主人公を象徴する役割もあります。
ただ、個人的に思うのは…漢字表記だとみずみずしさやフレッシュさがあまり感じられないように思ってしまいます。
「れもん」「レモン」「檸檬」「lemon」…
表記は受け手の印象に大きく関わるものであり、一般的にはカタカナ表記の「レモン」だとフレッシュ感がありますね。
作品前半の暗さや憂鬱さを後半に一気に転換させるアイテムとしての役割があると考えられます。
② 当時のレモンが持つ価値
なぜ作品でレモンが描かれたかという背景には、当時のレモンの持つ価値もあったと思われます。
作品が描かれた当時は、レモンが貴重だったり珍しかったり…とまではいかなくとも、現在よりは高い価値を持っていたと推察されます。
レモンという果実が日本で栽培されるようになったのは明治時代になってからです。
日本のレモン栽培は明治6年に静岡県で栽培が開始され、明治31年には日本のレモンの主産地である広島県の芸予諸島に和歌山県からレモンの苗木がもたらされた
出典:Wikipedia
明治以前から日本にあったかは不明ですが、西欧では17世紀になるとレモンの静物画が盛んに描かれるほどよく知られた果実でした。
レモンは寒さに弱いため、冬は温暖、夏は乾燥する特定の地域での栽培が適しています。
特定の地域しか栽培できなかったため、高級感ある果実として人気だったのです。
そのレモンが日本で栽培され始めたのが明治初頭。
つまり当時の店頭に並んでいたレモンはほとんどが輸入されたものだったということです。
梶井基次郎が作品を完成させた頃には栽培が定着していたと思われますが、それでも現在のような科学技術が発達していなかったため、限定された地域でつくられたレモンは高級感があったと考えられます。
流行りやトレンドという言葉で表すには少し強引かもしれませんが…それでも珍しさや高級感を持つものだからという理由で題材に選ばれたのかもしれません。
色彩鮮やかな情景描写
この作品はストーリーの展開もそうですが、情景描写も注目すべき作品です。
この作品には多くの具体的なモノが登場しています。
花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵の具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。
(中略)
たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮き模様を持った琥珀色や翡翠色の香水瓶。煙管、小刀、石鹸、煙草。
モノに囲まれている描写があることで、自分がそこにいるような想像力が掻き立てられますね。
また、上記で紹介したモノには様々な「色彩」が添えられています。
さらに結末部分の丸善の部分には以下のような一節があります。
見渡すと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
多くの色が登場する雑多な雰囲気が、レモンというシンプルな色と対比されています。
ごちゃごちゃとした感じで落ち着かない部分よりも、レモンイエローというシンプルなほうがかえって落ち着く…
そんな主張をしているような結末部分ですね。
このような色彩を用いた描写が評価され、現在まで読み継がれる作品となったのではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。
↓↓↓クリックしていただくとぴよすけが泣いて喜びます。