ぴよすけです。
井上ひさし作『ナイン』についての考察です。
『ナイン』は高校生の時に触れましたが、当時はなかなか想像するのが難しいお話だったと記憶しています。
正太郎が詐欺ってるのに訴えないの!?とか
そんな簡単に仲間を信じられるもんなの!?とか…
ともすると、自分が人間不信なだけなのか?と考えもしました。笑
大人となった今、「小説は小説」という読み方ができるようになってきましたが、それでも今から50年近く前の時代を描いているため、情景を想像しにくいお話であると思います。
この記事では物語で描かれる「大人の視点・ナインの視点」についてと、物語の結末部分についての考察をしています。
考察① 大人の視点・ナインの視点
物語の中盤あたりで正太郎の行いが明らかになります。
正太郎の行いとは?
かつての友達から寸借詐欺(金品を借りたまま返さないこと)をしていたという話や、英夫や常雄も正太郎の寸借詐欺に遭っていたことを指します。
この正太郎の行いが、大人たち(中村さん・わたし)とナインたちで見事に二分されていることが『ナイン』を読むうえでの一つのポイントになります。
大人の視点:訴える=法による裁き
物語に登場する人物で大人は「中村さん」と「わたし」の二人です。
この二人は正太郎の行いについて、次のような感想を持っています。
まずは中村さん。次のセリフが登場します。
あのとき、正太郎を警察に渡しておけば、豆腐屋の常雄もあんな苦労をしないですんだのにな。
続いて「わたし」。こちらも次のセリフが出てきます。
それで常雄くんはどうしました。正太郎くんを訴えたんですか。
たとえば友人から(貸せるかどうかは別として)「100万円貸してくれ!」と言われて、そのまま姿をくらまされたら…
あなたならどうしますか?
警察に訴えたり、しかるべきところに相談することが考えられますよね。
中村さんとわたしはある意味現実的な判断を下していると言えます。
子どもの視点:ためになることをしている=目に見えない関係性
一方のナインたちの意見は英夫のセリフから読み取れます。
まず畳85万円をだましとられた英夫の意見。
正ちゃんに八十五万円、だまし取られてからですよ、本気で仕事をするようになったのは。なんていうのかな、正ちゃんの作った穴を一日でも早く埋めなくてはと思い、それで仕事に精を出すようになったというところかな。
次に会社の金を持ち逃げされた常雄の考えを英夫が代弁している部分。
常雄にしても、正ちゃんを憎みながら、感謝しているところもあるだろうと思うんです。
この部分から、ナインたちは「正太郎の行いは悪いことだが、訴えることはしたくない」という意見であることがわかります。
彼らは正太郎の行いが「悪い」という認識があるようです。
しかし、なぜ訴えることをしたくないのかという理由がこの部分。
正ちゃんは一見、悪のように見えるけど、やはり僕らのキャプテンなんですよ。
英夫は仕事にきちんと向き合うようになり、常雄は奥さんが別人のようになって戻ってきた…
たしかに正太郎の一件を境に、生活が正されたようになります。
現実としてこのようなことがあるかはわかりませんが。笑
そこは小説ということで…
さらに気になる表現がこの部分。
おじさんにはわかりません。
父にもわかりません。
決勝戦まで一緒に戦ったチームメイトを信じることができるようになる…それを「わたし」は「わかるような気がする」と言っています。
しかし、英夫からは「わかるはずない」と一蹴されてしまいます。
ここからナインと大人たちとの間には決定的に違う見方があることがわかります。
大人とナインたちの間の考え方が違う理由は「野球団での経験」によるものだということが読み取れます。
野球団での経験
英夫や常雄、正太郎たちは死ぬほどつらい状況の中、自分たちの力だけで大会を勝ち進んだという過去の経験があります。
この野球団での経験が大人と子どもたちの意見を決定的に分けていると言えます。
大人側
大人側のセリフから、大人たちはナインたちの準優勝という結果に目がいっているように読み取れます。
英夫の言葉を借りれば、父である中村さんは苦しさや一体感を味わっていないことになります。
父は土手の木陰で試合を見ていただけですから。
そして父・中村さんは結果ばかりを見ている節があります。
新道少年野球団は強かったねぇ。
準優勝のパレードでも泣いている理由を「悔しかった」という言葉でまとめています。
つまり大人側の一つの視点として、作中の表現からは結果論で物事を判断している節が見受けられます。
子どもたち
一方、英夫たちナインは一体感が得られた過程を重んじていることがわかります。
自分たちは日陰なぞあり得ないところに、ちゃんと日陰を作ったんだぞ。このナインにはできないことは何もないんだ。そんな気持ちでいっぱいでした。
パレードで泣いていたのも「うれしかったから」という理由が終盤に語られます。
また一般的な「物語あるある」にしようとした「わたし」についても「おじさんにはわかりません」とクギを差しています。
つまり、英夫は「よくある青春物語」としてまとめられることを嫌がっています。
野球団で起きたことは、たった一回だけの他にはあり得ない物語ということを伝えようとしているんですね。
1回限りの出来事とは?
たとえば毎日食卓でご飯を食べますが、同じ日は一度としてないということと同じということです。
ご飯は毎日食べるけど、献立は毎回違いますし、家族と話す内容も違う…
今日のご飯を食べる瞬間は、今日のこの1回限りの出来事であるということと同じです。
このような一回性の経験を経ているナインと大人たちには、目に見えない・感じ取れない差があり、そのため大人とナインたちとの考え方に差が出てきていると見ることができます。
その考え方の差が、両者の分かり合えない溝のようなものになっているんですね。
一般化して考えてしまった「わたし」、一般化してほしくない「英夫」
考えてみれば我々の日常も同じようなことがいくらでも起こっています。
「昨日こんなことがあってさぁ~」
「あ、わかる~!」
「(こいつ、わかってくれてないなぁ…)」
こんな会話は日常でよくありますが、同意されても「わかってくれてないなぁ」と思う瞬間、ありませんか?
聞き手はどうしても自分に置き換えて話を聞いていて、一般化した状態(一般的なよくある話として)で想像するはずです。
伝える側は細部まで忠実に伝えることは本当に難しく…
しかし、たいていの場合、聞き手は「わかる気がする」で会話をまとめてしまいます。
この英夫の「おじさんにはわかりません」という部分は、どうしても一般論で語られるレベルで語ってほしくない経験だった、ということになるのです。
考察② 物語の結びについて
『ナイン』はなんだか意味ありげな感じで結ばれています。
振り返って西を見ると、大会社の大きなビルが野球場に覆いかぶさるように立っていた。この十何年かのうちに、ここには西日が差さなくなってしまったようである。
この「西日が差さなくなった」のは、当時の新道少年野球団のような関係性がもう生まれることがないということを暗示しているのでしょう。
英夫の言葉を整理すると以下のような流れになります。
- 日影がないところに日陰を作る
- このナインにはできないことは何もない
- チームメイトの絆が生まれる
- 社会人になった今でも、互いが互いを支えている
野球場で死ぬほど西日がつらかったからこそ、正太郎たちは日陰を作るという行動をとりました。
しかし、その西日が差さないとなると、英夫たちのように自分たちで考え自分たちで行動するというチームが生まれないということになります。
あくまで小説としてのおもしろさとして、ですが…
たしかに現実問題、子どものころはまだ判断・分別が十分にできるわけではないため、大人があれこれ手を回すというのが普通でしょう。
この時代に、子どもたちだけの野球団(監督は暑気あたりで倒れていた)でここまでやることができれば、それは自信にもつながるでしょうし、この先の人生でも大きな財産になるのかもしれませんね。
ちなみに小説『ナイン』の英夫たちの子どものころとは、1965年あたりを指します。
今とは時代が異なり過ぎてピンときませんが…
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の数年後あたりを想像してみてください。
細かい部分にも注目できる物語
単なる友情物語で終わるのではないあたりが、さすが井上ひさしといったところでしょうか。
細部までこだわっている作品だと思います。
たとえば家賃の部分がおかしいことに気付きましたか?
大人になってからも楽しめるので、ぜひご覧ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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