ぴよすけです。
目取真俊さんの作品『ブラジルおじいの酒』に登場する「おじいの酒」が表す意味についての考察です。
『ブラジルおじいの酒』は象徴的なものが多く描かれており、いわゆるテクスト読み(読み手側が自由に解釈する読み方)があらゆる部分でできる作品です。
もちろん作者の目取真俊さんが意図して物語を描いていると思われますが、読み手に多くの自由な部分が委ねられている部分があるからこそ面白く感じる物語でもあります。
考え方の根拠となる部分も併せて載せましたのでご覧ください。
おじいの酒に込められた意味とは
物語中盤で登場する、作品タイトルにもなっている「おじいの酒」について。
酒のそのものの正体は「泡盛」であることが判明しますが、物語中で「酒」は記憶を表すアイテムとして描かれています。
次の2点をもとに、なぜ酒が記憶を表すアイテムなのか見ていきましょう。
・酒が、おじいの父親との思い出の甕に入っていたこと
・酒と感じる人と感じない人が登場すること
甕に入った酒
作中に登場するおじいの酒は甕に入っています。
まずは甕にまつわる記述から酒の正体に迫ります。
甕はおじいの父親の約束のアイテム
おじいの甕は、ブラジルに渡る直前におじいの父親とおじいが洞窟に隠したものです。
おじいがブラジルから帰ってきたら、その時は再会を祝って酒を飲もうと父親と約束を交わします。
ブラジルに渡ったおじいは、いつか父親との再会(もっと言えば一緒に酒を飲むこと)を楽しみに異国の地で暮らしていました。
しかし沖縄が戦地になったということを聞き、不安が募っていきます。
そして沖縄に戻ってきたときに家族が全滅したことを親族から聞かされるという流れです。
ブラジルに渡る直前の甕には泡盛が入っていますが、おじいがブラジルから帰沖したあとに洞窟で甕を発見すると、中身は空になっています。
そしておじいは家族の顔がぼんやりとしか思い出せないということが書かれています。
甕は残っていた。岩の割れ目に、父が置いたときのように。蓋のまわりに付いた油紙の燃え滓と炭化した紐をこそぎ落とし、焦げた木の蓋を取る。一瞬、花の匂いが流れた。それだけだった。甕の中には何も残っていなかった。冷たい甕を抱いて、闇の中にぼんやり座り続けた。長い時間が経ち過ぎていた。父や母や兄妹たちの顔も、もうおぼろにしか思い出せなかった。
長い時間が経過しているから忘れているということもありますが…
酒が記憶や思いを表すアイテムと考えれば、父と一緒に飲む約束をした泡盛が戦争を経たことでなくなってしまった=家族たちの記憶がなくなってしまったというふうにも読める場面です。
ちなみにこの後、再びおじいは甕に泡盛を入れて継ぎ足していきます。
この継ぎ足した酒は戦後、家族を失ったつらい思いをしたときから記憶ということになります。
甕に入れた酒をおじいは年に一、二度わずかばかり飲んでは、新しい酒を継ぎ足し、二十年余育ててきた。自分以外にこの酒を口にしたのは、「お前だけど」とおじいは笑った。
甕は呼吸している=中にあるものは生きている
さらにおじいが甕について次のようなことも言っています。
「甕は呼吸しておるんよ」
おじいは甕を撫でながら言った。
つまり、酒を入れる甕が呼吸している=生きている=中に入っている酒(記憶や思い)が生きている状態で保存されているというふうに読めるわけですね。
この甕は最終的に行政の立場にある若者が割ってしまいます。
一人残った二十歳ぐらいの、赤いTシャツの袖を肩までまくり上げた若者が、甕を持ち上げて濡れ縁に立つと、顔を近づけて匂いをかいだ。いぶかしげな顔をした若者は、甕の底に右手を添えたかと思うと肩に担ぐようにし、いきなり地面に放り投げた。甕の割れる音に驚いた男たちが舌打ちし、叱声を飛ばす。
おじいの死により、おじいと父親の記憶がなくなってしまったことを象徴するような場面となっていますね。
酒と感じる人・感じない人
物語には、おじいの酒を「酒と感じる人」と「感じない人」がいます。
この酒と感じる人・酒と感じない人の違いは、今回の考察で大きな手掛かりとなる部分です。
酒と感じる人
おじいとぼくです。
物語はぼく視点で進んでいきますが、おじいから酒をもらったぼくは香りがするという描写があります。
おじは油紙を縛った紐を解き、蓋を開けた。あふれる匂いがあたりに漂う。おじいや父親がふだん飲んでいる泡盛の、山羊の匂いに似たそれとはまるで別のものだった。夜に咲く白い花から流れるような甘い匂いをかいでいるだけでまぶたが重くなる。
おじいの真似をしてコップの底の淡い金色を揺らし顔に近づける。立ち上がってくる匂いは、なぜか懐かしい感じがする。恐る恐る口に含む。舌が温かく柔らかに包まれ、甘味が口中に広がる。花の匂いが鼻腔を漂う。その一口で酔ってしまったようで、コップを返しながらひとりでに笑いが浮かんだ。
また、おじい本人も酒を甕に継ぎ足していることが書かれているため、酒と認識してます。
人ではありませんが、蝶も酒に絡んだ場面で登場します。
おじいの家でぼくが酒を振舞ってもらったとき、蝶が酒の匂いにつられてやってきます。
匂いに誘われたのか、白地に黒の斑点模様が走るオオゴマダラが部屋に舞い込んでくる。
そこでおじいは「蝶は人の魂がこの世にあらわれるときの姿」だということを教えてくれます。
蝶は人の魂がこの世に訪れるときの姿なのだとおじいは言った。
蝶の正体もいろいろ想像できますが…
おじいの家族が戦争で亡くなっていることもあり、蝶=おじいの家族と読んでも差し支えないでしょう。
家族でなくても、戦争で亡くなった人として読んでも問題はないと思います。
この甘い匂いに誘われたであろう蝶も、おそらく酒と認識している側として描かれています。
酒と感じない人
一方、おじいの酒を「酒と感じない人」が登場します。
物語終盤でおじいが亡くなったあとに、おじいの家を整理していた行政の人たち(区長や上原という男たち)です。
おじいの家の片づけをしている最中におじいの甕を発見し、中の液体を口に含む場面があります。
しかし液体に口をつけた区長は「精が抜けている」というセリフを吐きます。
背後から渡された茶碗を受け取って甕を傾けると、区長は香をかぎ口に含む。一呼吸おいて、口の中のものを吐き捨て、茶碗の中身をこぼした。
「精の抜けておるむん」
忌ま忌ましそうに唾を吐いている区長から茶碗を受け取り、建設業の日雇いをしている上原という四十過ぎの男が、仲間の髭面の男に甕を持たせて注がせた。
「水るやるむんな」
上原は顔をしかめて、茶碗を庭に転がした。男たちの関心はそこまでだった。
精が抜ける=ただの水=アルコールが抜けているということが読み取れる場面です。
酒の精が抜けるとは記憶や思い出がないということ
ぼくがおじいの家で酒を振舞ってもらった日と、行政の人たちがおじいの家を片付けている日はたった数日の差です。
蓋を開けっ放しにしていない限り、たった数日で酒のアルコールが抜けることは考えられません。
精が抜ける=単純にアルコールが抜けたことを意味しているとは考えにくいわけです。
また、おじいの家を片付けているときにぼくもおじいの家を訪れています。
おじいの家を訪れたぼくは「その液体がただの水であるわけがない」と確信しています。
ぼくは庭に入って、地面に染みを広げていく液体を見つめた。鋭い角度を空に向けた破片からこぼれるそれが水のはずはなかった。眠りを誘うような花の匂いが広がっている。
つまり、行政の人たちが言う「精が抜けている」の「精」とは別の何かを指すと読めます。
では「精」とは何を意味するかということになります。
辞書の意味を見てみると「人間以外のものに潜んでいるといわれる魂や霊魂」(デジタル大辞泉)とあります。
精が抜けるとは魂や霊魂、もっと言えばその魂に込められた思いや記憶などが抜けることを指していることがうかがえます。
(ちなみに『ブラジルおじいの酒』が収録されていた単行本タイトルが『魂込め(まぶいぐみ)』です)
行政の人間はおじいと接点がなかった=おじいの記憶や思いが抜けている=水と感じるという描写だったと読めます。
まとめると次のようになります。
ぼく・おじい・蝶=戦中・戦後の体験をした、話を聞くことで記憶を引き継いだ
行政の人間=戦中・戦後の体験をしていない、おじいから話を聞いていない
酒の中には魂が宿っていた
酒というものは体の中に入れるものなので、口に含み味をしたものは記憶や思いを受け継ぐ象徴でもあると考えられます。
おじいの酒について考察してみましたが、この記事が正しい・間違っているというものではありません。
読み手が書かれている言葉からつながりを見出し、想像してみることで他の見方もできます。
冒頭にも記しましたが、『ブラジルおじいの酒』はこのように様々な見方ができる作品となっています。
他の記述部分にも多くの考えさせられるポイントが散りばめられています。
いろいろな見方をして想像を働かせることで、小説が楽しく読めると思います。
『ブラジルおじいの酒』の簡単なあらすじや感想はこちらの記事にまとめました。
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