ぴよすけです。
今回は文学作品として高い評価を受けている芥川龍之介作品『羅生門』というお話です。
この記事では次の2つについて述べています。
・「門」の現実世界、小説内での特徴と役割
・「門」と下人の変化の考察
芥川龍之介の作品の中でも名が知られている作品の考察です。
高校時代を思い出しながらお読みください。笑
作品データ
まずはじめに、この作品と作者のデータです。
作品データ
作者:芥川龍之介
発表:大正4年(1915年) 東京帝国大学機関誌『帝国文学』
現在では芥川龍之介の代表作として名が知られていますが、発表当時は世の中にまったく知られなかった作品だったんです。
今では高校国語の教科書の「定番教材」として有名です。
今から約100年前に発表された作品です。
作品はさらに時を遡った荒廃した平安王朝が舞台となっています。
ぴよすけ調べでは、各出版社が発行している「国語総合」教科書の大半に採録されています。
タイトルや舞台となった「羅生門」とは?
そもそも作中に登場する「羅生門」という建物について理解しておく必要があります。
2つの視点から門について述べていきます。
①「羅生門」は存在していなかった
残念ながら、「羅生門」という建造物は存在していませんでした。
実在した「羅城門(らじょうもん)」という建造物がモデルとなっていると言われています。
「羅城門」は、当時の平安京の内裏から伸びる朱雀大路(いわゆるメインストリート)の端っこにありました。
作中では、廃れた街中の様子とともに、『羅生門』が修理されていない様子が描写されています。
『羅生門』がめちゃくちゃ荒れ果てている様子というのは、現在の霞が関にある政府の役所がボロボロに崩れ果てて修理されずにいるのとほぼ同じなんです。
とんでもなく京が荒れ果てていた様子を表していますね。
②「門」といっても立派な建造物
現代の「門」は両側にコンクリートがあってその間を通るようなものを想像しませんか?
もしくは「門」の字のように鳥居のようにくぐるものを思い浮かべるかもしれません。
学校の正門や『サザエさん』の磯野家の門などのイメージでしょうか。
この『羅生門』は平安京が舞台のお話なので、現代の門とは少し異なります。
作品を読んでいても
「え?門の下で雨宿り?」
「門の階段を上る??」
など、高校生はなかなかイメージが湧かないことと思います。
舞台となった門は、この記事のアイキャッチ画像のような建物です。(画像は朱雀門です)
門には屋根がついており、2階に上がれるはしごが付いていました。
その羅生門2階で下人は老婆と出会い、影響を受け、盗人として夜の町に駆けていくというわけです。
しかし、門の2階に亡骸がごろごろと捨てられているのも、なかなかの荒れっぷりを表現していますね。
門のまとめ・羅生門は存在しない!作品のモデルになったのは「羅城門」
・当時の門は立派な建造物
「門」の役割とは
では、本題の「門」の考察に入ります。
実社会における「門」は、外と内の境界線として存在しています。
先述の「学校の正門」では、門を隔てて内側が学校の敷地となり、外側は敷地外となります。
また、「サザエさんの磯野家の門」も同様で、門の内側が磯野家、外側は道(公道)です。
つまり、「門」を境に外側と内側では性質の異なるものになるという役割があるといえます。
そんなの、当たり前だよ!
そうです、当たり前です…笑
しかし、この性質は小説の中にも当てはまります。
この「羅生門」は建造物ではあるものの、中に入った下人は全く異なる性質を身に付けて外に出てきています。
順を追って説明しましょう。
(序盤)門の外にいる下人
登場人物である下人は、もともと主人に仕える立場にありました。
下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。
ところが、その主人から暇を出されて(=クビになって)しまい、路頭に迷ってしまいます。
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
この雨宿りをしている時点では、手段を考えていてうちに飢え死にするか、手段を選ばずに今すぐ盗人になって生きていくかが未定な状態であるわけです。
頬にニキビがある描写も、まだまだ決断力が乏しい少年~青年という年齢を表しています。
(中盤)門の中に入った下人
下人はとにかく寝床確保のため羅生門の中に入ります。
中はだれもいないという下人の予想に反して、老婆が亡くなった人の髪の毛をせっせと抜いていました。
紆余曲折を経て、下人は老婆に何をしていたかと刀を突きつけながら問いただします。
すると老婆は髪を抜いてかつらを作ろうとしていたと告白しました。
以下が老婆の髪の毛を抜いた言い分です。
成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。
…長いですね、まとめてみました。
老婆の言い訳まとめ
・生きるために悪事を働いた女がいたんじゃが、そいつが亡くなったのさ
・見てのとおり、私はこのままではじきに飢え死にしてまうだろうよ
・だから悪いことをして生きたこの女の髪を抜いてかつらを作って、今度は私が生きようとしているんだよ!
老婆は生きるために悪事を働くことを正当化しています。
(終盤)門の外に出てきた下人
結果、老婆の言い分を聞いた下人は盗人になる決意を固めます。
しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
そして老婆の着物を剥ぎ取り、門の外に出ていきます。
下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
下人は行方をくらましてしまった、という結末です。
下人の変化と門
ここまで物語の詳細を掻い摘んできましたが、時系列で並べると以下のようになります。
- 序盤門に入る前=未定の状態手段を選んでいるうちに飢え死にしてしまうか、盗人になろうか考え中
- 中盤門の中=未定の状態老婆の行動を見て、老婆の話を聞く
- 終盤門から出てくる=盗人少なくとも老婆に対して盗みを働き(盗人になって)外に出てくる
物語開始時、門に足を踏み入れる前の下人は未定の状態です。
そして門の中で老婆との会話があり、最後に門から出てくる(=通過する)ときには、盗人として出てきます。
つまり、まったく別の性質を備えて下人は門から出てくることになります。
現実世界と同じ役割がこの小説の門には与えられているんですね。
舞台が門でなければいけない理由は何なのか、そこらへんにある廃墟の武家屋敷ではいけないのか…
そしてなぜ「羅城門」が「羅生門」になっているのか…
下人は門から出てくるときには盗人ですが、言い換えれば生きる選択をしたということです。
生きるか死ぬかの修羅場の中、生きる選択をした下人の通過点の物語=『羅生門』なんですね!
すべては下人の変化を描くための芥川龍之介のテクニックだったんです!
まとめ:構造物には意味がある
今回のまとめです。
・門には境界線の役割が与えられていた
・門を境に下人は「生きる」ことを選択した
=門で生きる選択をする物語「羅生門」
細かい部分まで描かれている作品を読むといろいろ考えさせられますね。
ちなみに…
今回は門でしたが、建物の描写に何らかの意味属性を持たせている作品は結構あります。
単に読んでみておもしろかっただけでなく、どのような意味があるのか考えながら読むとまた違った発見があると思います。
『羅生門』の主題について考察した記事はこちらからどうぞ!
小説の主題は普通、読み終えた人が考えるものだと思います。 ところが『羅生門』の作者である芥川龍之介は「この作品はこういうことを主題に書いた」ということを自筆で残していました。芥川が『羅生門』で伝えたかったテ[…]
『羅生門』の最後の一文について考察した記事はこちらからどうぞ!
現在、高校国語で取り上げられることが多い『羅生門』。実はこの作品の終わりにある、最後の一文がもともと違っていたことは知っていますか? 芥川が『羅生門』を一番初めに発表したときと、現在ではどのように違っていた[…]
『羅生門』をもっと視覚的に捉えたい!そんなあなたにオススメです!
↓↓↓クリックしていただくとぴよすけが泣いて喜びます。