ぴよすけです。
2021年は例年より早く梅雨の時期になりました。
しかし今年の梅雨はあまり雨が降っていませんね。
暦も6月になり、ふと6月らしからぬ「六月」を思い出したので、記事にまとめました。
今回紹介しているのは、茨木のり子さんの詩「六月」です。
きれいな情景と伝えたい内容が印象に残る詩となっています。
六月
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむけるどこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちるどこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる出典:『見えない配達夫』より
初出は昭和31年(1956年)、作者である茨木のり子さんが30歳のときの詩です。
「美しい」に込められた意味
この「美しい」とは、見た目が整っている・きれいだという意味ではなく、内面的な素晴らしさや安心感などを意味しています。
「美しい村」「美しい街」
第一連、第二連では「美しい村」「美しい街」という言葉が登場します。
つまり「美しい村」「美しい街」は、人々が求める平和や安全に満ちたユートピア(理想郷)のようなものなのでしょう。
戦争中に多感な思春期を送った茨木のり子さんは、「わたしが一番きれいだったとき」など戦争についての詩をいくつか詠んでいます。
今回の「六月」では、美しい村や街が争いのない場所の象徴として用いられているのだと思います。
第一連では、みんなで仕事をしたあとに、みんなでジョッキを傾ける…
平凡な一日がちょっとの幸福感を含んで終わる村。
「男も女も」は、この詩が作られた時代にはまだまだなかった男女平等を想起させる言葉です。
「黒麦酒」とあることから、日本ではない遠い異国の農村をイメージできます。
第二連も同じように見ることができます。
果実が実った街路樹は整備された街並みであり、そこでは若者が語り合うことができる安全な場所。
夕暮れの中のやさしいさざめきとは、一日が終わる前に若者同士で日常のこと、夢や希望などを語り合うことが想像できます。
美しい人
そして「美しい村」「美しい街」をつくるのは「美しい人」ということです。
同じ時代を生きる人と人との力が、「美しい村」「美しい街」を創るという考え方でしょうか。
親しさ・可笑しさ・時には怒りを共有し、大きな力となって生きていくことができる人とのつながりを求めています。
つながった美しい人同士で、戦前とは違う理想の社会を作っていこうという前向きな意志が伝わってきます。
なぜ「六月」なのか?
茨木のり子さんが詩題を「六月」とした理由は明確ではありません。
詩の内容や作者の背景から考えると以下のようなことが考えられます。
① 日本ではないことを示すため
日本ではないということより、どこか遠くにあってほしい理想の地を想定しているため、でしょうか。
日本の6月を想像すると、この詩を深く鑑賞できません。
6月の日本は梅雨であり、ジメジメした雰囲気ですよね。
第一連で「鍬」「籠」が登場することから、農村で作物の収穫が想起できます。
先述したとおり、「黒麦酒」もあるので異国の6月となります。
春が終わり夏にかけて豊かな作物が育つ大地で、平和な生活を送る人々を想起させるために「六月」という題にしたと考えてもよいでしょう。
② 作者の誕生月
茨木のり子さんの誕生月は6月です。
自分の誕生月にあまりマイナスなことを言いたくないものですよね。
ご自身の誕生月に平和や安心の実現に向けた詩を詠んだ、というのも一つの見方です。
③ 詩を6月に書いたから
この詩は詩集『見えない配達夫』に収められていますが、初出は6月21日の朝日新聞に掲載されました。
掲載される月が6月だったため、その時期をイメージして書いたのも理由の一つして考えられます。
いずれにせよ、詩の鑑賞にはさまざまな要素を盛り込むことで多くの見方ができるものです。
作品背景を知らなくとも、この詩のひとつひとつの言葉から発せられたものを自分で解釈し、タイトルと結びつけるのが、詩を味わう醍醐味ですね。
今の時代だからこそ読んでほしい詩
現在では戦後と比べ豊かな国となった日本。
この詩が作られた時代とは社会情勢が大きく異なっており、茨木さんが渇望していた争いがない世の中になったとも言えますし、まだまだ言えないとも言えます。
また、豊かさによって新たな問題が表出しているのも事実です。
人々が力を合わせて良き方向へ向かおうとする考え方は、今のほうが遥かに重要となった気がします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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