茨木のり子さんが70歳を超えて作られた詩「倚りかからず」。
詩が発表されてから20年以上の時が経った今も、この詩から考えさせられることが多いです。
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ引用:『倚りかからず』茨木のり子著(1999年10月)
自分の判断や思い・生き方は、自分で決めていくということを想起させてくれる詩です。
今の世の中は何が正しいか、何が間違っているかの2極化になっているようにしばしば感じる時があります。
たとえば先日、知人との会話で「おすすめの曲って何かある?」と聞かれました。
そこでふと疑問が生じたんです。
「あなたのおすすめの曲なんて、わたしと好みが違うんだからわかるはずないんじゃない?」
でも、こういう会話は日常にあふれています。
「おすすめの本は何?」
「結婚するのに相手に求めるものは?」
中学生や高校生であればこういう会話もあるかもしれません。
「どこの高校(大学)がいいと思う?」
「どんな仕事に就くのがいいのかわからない」
よくよく考えれば、これらは(気軽にコミュニケーションの一つとして発言しているかもしれないが)「失敗したくない・間違いたくない・余計なことに時間をかけたくない」からこそ出てくる質問なのかなぁと思ってしまいます。
ネットを検索すれば、これらの答えとなるものはごまんと出てきます。
「おすすめの曲ベスト10」「結婚相手に求める3つの〇〇」「月収〇万円のおすすめ職業」など。
たしかに人生を決めるような結婚や仕事だと慎重になるのもわかりますが、本や音楽などの文化的なものは他人に求めて感動を味わうものではないような気がします。
共感を得たいだけならいいけれども、誰かが経験しているものしか触れられないのは失敗を恐れているのかと。
本や音楽だけでなく、今の世の中全体がそういう傾向があるのかもしれません。
・正しくないものは批判の的になってしまい、謝ることを求められてしまう。
・不必要なものは役に立たないといって触れる機会がなくなってしまう。
・遠回りになることを嫌い、すぐ解決できる方法を求めがちになってしまう。
こう感じるようになった背景には情報化社会が要因としてあるでしょう。
SNSが発達した今、余計だったこと・失敗したこと・間違ったことはすぐ世界に向けて発信されてしまう。
余計なこと・失敗したこと・間違ったことがいつまでも残ってしまう。
その情報を手に入れた人はその物事への関心がなくなってしまう。
人なので大なり小なり間違うことはありますし、間違うことで成長することもあります。
遠回りをした結果、改善しようとしたり遠回りなりに何かを得たりするものでもあります。
しかし間違うこと・遠回りでの成長を認める空気が醸成されなくなっている部分もあるように感じてしまいます。
少し前に作家である石田衣良氏の『傷つきやすくなった世界で』を読み、この「倚りかからず」の詩と重なる部分を感じました。
『傷つきやすくなった世界で』の中で、今は誰も失敗したくない時代だということを石田衣良さんがいっていました。
たしかに失敗したくないからこそ、正解を求めてしまいがちです。
しかし失敗してもそれを自分の糧として生き続けていくからこそ、茨木のり子さんの言うような「倚りかからない生き方」ができていくのではないでしょうか。
「長く生きて学んだのはそれぐらい」という部分からは多くの失敗もしてきたことを感じさせます。
失敗したことも、正しかったことも、長く生きていればすべて自分の中に吸収されてしまう。
それが今の自分を作っているというようなイメージ。
「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」
倚りかからない生き方(正解も間違いもあった生き方)をするから、自分を休めてあげるという部分につながると感じます。
できあいの何かに倚りかかるということも時には大切ですが、予測不可能な時代だからこそ何か新しいことに挑戦し間違いを正しながら生きていきたいものです。